心霊探偵八雲とは

アニメ作品ですよね! という意見が出るでしょう。私もその一人になりますから。
2010年秋からNHKにて放送されたアニメ作品ではありますが、残念ながらそこまで話題性を伴って有名だった作品であったとは言えません。正直、この世界に詳しい人でも、『えっなにそれ?』という人がいてもおかしくないくらい、ひっそりと放送されていた作品です。でも内容はいいんですよ! 出ている声優さんだって、今活躍している人ばかりなんですから! と私情を挟んでみます。

確かに同年秋アニメの中には、『とある魔術の禁書目録Ⅱ』・『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』などの大ヒットライトノベル作品、週刊誌で連載されている人気コミック『神のみぞ知るセカイ』・『侵略! イカ娘』のアニメ化、『STAR DRIVER 輝きのタクト』といったボンズ原作でありながらあまりヒットしなかった作品など、色々と話題性があった同クール内ではどうしても作品を押し上げるとなれば難しいところだろう。
何より、放送キーがNHKというアニメとはあまり縁のないテレビ局での放送ということもあり、NHKのチャンネル自体見ない人にとっては作品が放送されていることも知らないということもあったに違いない。
確かにこればっかりは仕方がない、といいたいですがアニメ好きを舐めてはいけません!
見ている人は見ているんです! 同作品の原作は小説ですが、月刊ASUKAでも連載されており、同雑誌内で掲載されている作品『咎狗の血』もこのクールにてアニメが放送されている。
角川系列ですので、角川が大々的に宣伝していた! と思いたいところです・・・・・・。

あらすじ

さて、アニメとしての作品についてはまた後々話すとして、原作の話に移るとしよう。
原作小説は2004年から文芸社から刊行され、その後角川書店から新装版として発売され、原作9巻まで発売されている。

ある大学のキャンパスのハズレにコンクリートへきつく理の平屋の廃屋があり、昔か幽霊が出ると言ううわさがあった。ある日、美樹、和彦、祐一の三人は噂が本当かどうか確かめようと廃屋を訪れるが、そこには確かに何かがいて、和彦と祐一は美樹をひとり残して逃げてしまう。
取り残された美樹は高熱を引き起こしてしまい、その場で倒れてしまう。病院に担ぎ込まれた美樹だったが、眠ったままうわ言を繰り返しつぶやき続けているという不可思議な現象に見舞われていた。
そんな美樹の容態を相談しようと、友人の『小沢晴香』は霊感のようなものを持っているという『斉藤八雲』の元を訪れる。
映画研究同好会の部室を訪れるが、出迎えたのはひどい寝癖と眠そうな目をしたスカした青年だった。
本当にこんな人に相談してもいいのだろうかという不安に晴香だが、他に頼ることも出来ないので以来をするのだが、八雲は受けるとして依頼料を要求したのである。
当然、本当にそんな力があるかどうか分からない八雲に対して晴香はその場を去ろうとするが、去り際に八雲は意味深な言葉を告げる。
『信じる信じないは君の自由だが、だけど僕には――死んだ人の魂が見えるんだ』と、告げる八雲に対して晴香はその言葉を信じることにした。
八雲を美樹の元へ連れて行くと、八雲は衰弱していく美樹の足元に霊の姿が見えるという。
やがて二人はその廃屋で起こった監禁事件と、その犯人に近づいてく事となる。

上記に書いた内容は心霊探偵八雲 1巻 赤い瞳は知っているから『開かずの間』からの簡単なあらすじだ。
ミステリーと銘打った内容ではあるものの、展開としてはどちらかといえば現代小説というより、ライトノベル形の作品に近いだろう。
推理小説となればお堅いイメージしかないが、この作品はライトなユーザーが何も考えずに物語りの入り込んでいける点では読みやすい作品といえるが、著名な作家が書いた本格的な内容と比べるとやや物足りなさを感じさせてしまうのではないかと思う。
アニメ化されたこともあり、ターゲット的な年齢層は中高生から20代前半を意識しているのが作風から伺える。
確かにミステリーとなると、どうしても頭を使って読まなければならない、普段使わないような単語ばかりが文章に羅列していると、読み慣れていない人は一行も読まずに本を閉じてしまうのが、誰しもあることだ。
同シリーズに対しても世間からは賛否両論あるだろうが、そこはどんなものにも生じている問題なので言及等はしない。
そういう点を考慮して話すと、ミステリーらしからぬないようではあるという意見があるものの、読みやすさを重視した内容と考えればほぼ問題ない。なぜかといえば、所詮捉え方は人それぞれだということだ。誰かがよくないといえばじゃあ自分も同じ意見だ、ということにならない。結局その人の感性の問題ということになってくるので、例えば友達がつまらないというのであれば、それにあわせがちになってしまうのも人間の性だが、自分らしさを重視している人ならばそんなことない、と力強く否定することも出来る。

さて、話を戻そう。
この作品の要となる内容だが、やはり主人公の能力の秘密と、その出生が本作品の最大の謎として取り上げられ、その話題を一貫して話をしている。
ではここでネタバレタイムといこう。原作読んでいないので止めていう声は無視する、見たくない人はこれより先は注意。
そもそも八雲の両親は、実は異母兄妹なわけです。
八雲の父『斉藤雲海』は実の父に捨てられて、母と二人でつらい人生を過ごしていた。しかし父は別の女性を嫁に貰い、幸せにぬくぬくと暮らしており、その女性との間に生まれたのが八雲の母である『斉藤梓』と、成長した八雲の保護者をしている叔父の『斉藤一心』である。
雲海は自身の復讐として、梓を強姦し、その時に身篭ったのが八雲だった。八雲の赤い瞳は父親譲りであり、能力としては父親以上を備えている。
梓は望まぬまま母親になったが八雲を愛していた。しかし元フィアンセであった『武田 俊介』による七瀬邸一家4人殺害事件がきっかけで、両目の赤い男から『いずれ自分と同じ赤い目を持つ八雲が武田以上の人をその手にかけるだろう』と脅され、やむなく八雲を殺めようとするも刑事の『後藤 和利』に阻まれ、失踪して消息を絶ってしまう。
その後八雲は叔父の一心に育てられることになるが、物語が後半に進むにつれて八雲は自分の出生の謎を知っていく、と言った感じだ。

幽霊というオーソドックスなテーマがこの作品の見所ではあるが、では幽霊とはいったい何なのか。普通に考えたら、人が死んで、世に未練があり成仏できないで現世をさまよっているというのが、少なくても日本では一般的な解釈だろう。もちろん現実に幽霊が存在しているという話になればオカルトを存在する人ならば信じていると答えられるが、大半の人はそんなもの存在しないという。そんな夢物語を考えているより、現実を考えていなければ生きていけないと考えているのが、逆に普通である。
もちろんこれは一般的なものの考え方であり、この中に宗教的な意味合いは含まないとする。ここにその特色が関わるとまた解釈が違ってくる。
そもそも日本古来の宗教である神道では、八雲の世界観である死者の魂が現世に存在し、それらは子孫達を守っているためだとしている。
霊魂の存在を信じていないという人は宗教的な意味合いではなく、ただそんな目に見えないものは存在しないのと一緒だと、そう決めているというのがほとんどではないのだろうか。
そもそも魂というものは宗教観では全く解釈が違っており、一概にこれが正しい概念だと決め付けることは出来ないのだ。
自分はこう思っている、なぜなら自分が信仰している宗教ではこういう考え方なのだ、だからこそ私はその教えを信じて主張している、と宗教観での争いとなればこの意見が沸いて出てくるだろう。
では簡単ではあるが、各々の宗教で魂の扱いがどのように考えられているのかを見てみる。今回は日本では馴染み深い『キリスト教』・『仏教』・そして日本古来の『神道』に焦点を絞ってみる。

キリスト教の場合

キリスト教では魂とは人間不滅の本質であり、魂は死後に報酬か懲罰を受けると信じられている。
キリスト教学者は、魂についての確実ともいえる知識にたどり着くということは、世界で最も困難な事柄の一つであるといわれている。
その中で、初期のキリスト教徒思想への最も大きな影響者とされているアウグスティヌスは、魂は『肉体を支配するために適用され、理性を付与された、特別な実体』であると書いている。
また哲学者のアンソニー・クイントンは、魂とは『人格と記憶の連続性によって接続された一連の精神状態であり、個性の本質的な構成要素であり、従って、魂と関連付けられた人間の肉体のいかなる部位からも論理的に異なっているばかりではなく、個人の存在そのものである』としている。

仏教の場合

仏教では主に『霊魂』と呼ばれており、肉体とはまた違う実態として存在しており、人間の生命や精神の源であり、非肉体的・人格的な存在とされている。
霊魂という言葉は『霊』と『魂』という言葉の組み合わせであり、その二つの言葉を同時に意味しているのだ。『霊魂』とうは一般的に、個人の肉体及び精神活動を司る人格的な実在であり、五感的感覚による認識を超えた永遠不滅の存在としている。
仏教で有名な輪廻転生もあるが、古代エジプトでは人が死ぬと肉体から離れるが、肉体に再び戻ってくるという考え方があり、古代インドでは霊魂は何度でもこの世に生まれ変わるという考え方が一般的だった。あの世へいったり、この世に影響を及ぼしたりすると考える文化・思想も存在しており、人間だけでなく、命あるもの全般、動物や植物に宿ると考えられたり、さらには鉱物にも霊魂が宿るとされている。
現代では霊魂を肯定的に捉えることが、生きがいや健康と言ったものと深く関係があることがあると、様々な学者の研究によって明らかにされている。

神道の場合

神道では、森羅万象に魂が存在するとされており、肉体とはまた違う実態があり、人間の生命や精神の源であり、非肉体的・人格的なものとしている。この点では仏教の考え方とよく似ているといえる。
優れた実績を残した人物の霊魂は、尊と同等の人格神、あるいはこれに相当する存在とされており、国家神道で明治以降、戦死者の魂をうたっている場合は特に英霊とも呼ばれている。
そんな霊魂の区別や概念と言ったものはあいまいであり、分類や定義づけということはされてこなかった。ただ強弱と主客といえるような区別は存在し。大きいものや古いもの、長く生きたものがその力が大きいと考えると同時に尊ばれた。

さらっと書いたが、よく分からないというならあまり気にしなくても良い。むしろ書いている筆者もイマイチの見込めていないのが本音だ。
八雲の物語の世界観としては仏教が近いだろう。
キリスト教では、肉体としての死後は魂は別の世界で生きているとされており、神道では死んだ魂は清めを受けることで神への昇華を果たすとされている。
作者が仏教徒かどうかは分からないが、それでもこうした魂という話を取り上げるとなると、幼少の頃から影響を受けていた考え方が強く反映されがちだ。
魂というテーマを扱う点では、こちらも人それぞれ考え方があるものが、作者はこうした内容に対してただ意見を述べているだけに過ぎない。
作品というフィクションの中でこそ、作家は自分の思うテーマを書いて表現したいというクリエイターとしての本能に従っているだけだ。

赤い目

お堅い話が続いてしまったが、次は少しライトな話をしよう。
主人公や雲の左目は霊の姿が見える赤い瞳をしているという設定だが、なんともまぁ中二病的な設定だなぁと言う感じだ、と筆者はよく思ったものだ。
中二病という言葉は何ですか? というのは説明しないでおく。 別に知る必要性はないが、興味があったらググって見れば分かります。
赤い目、確かに設定として捉えれば何とでもなるだろうが、この業界ではよくありがちな主人公設定だ。 能力は違うが、赤い目で人を見れば自分の思い通りに命令できるという某キャラや、最近では第二期も決定した中二病を前面にテーマにした某作品など、いろいろある。

角川書店から刊行され、内容もかなりヘビーでダークな世界観がウリの本作だが、やはりライトノベルを意識した作品なのかとも思ったが、角川系列ともなれば色々レーベルはあるものの、内容によっては読者層が違うということなのだろう。
いかんせん、推理小説と呼ぶにはいささか中高生が喜びそうな設定をした主人公は突っ込みどころ満載だ。
それに叔父の一心さん、この人もまたなんだか痛い人で、住職という肩書きがありながら八雲の苦しみを味わうために左目に赤いコンタクトレンズをつけて擬似的にその気分を味わっているというのだ。
いや、なんとなく言いたいことと思っていることと、八雲の事を考えているということは十分伝わるのだが、それでどうして赤目のコンタクトレンズをつけるという答えにたどり着くのだろう。
八雲もとめなよ、というよりこの叔父さんはいったい何してんの!? と読んでいる最中に突っ込まなくてはいけない衝動に捉われるのは私だけではないだろう。
やっていることはどうかと思うが、叔父さん自体はとってもいい人なんです、それだけは分かってください。
赤い目となれば、それこそお父さんの雲海さんも両目が赤いということで、なんともまぁ普通に歩いていれば目立つだろうと普通の感想を述べてみる。
特殊能力的なものとして、目に力が宿るというのは、こうした創作関係では多く取り扱いやすいのは事実だ。何というか、単純に真似しやすいのだろう。
真似という言葉は乱暴すぎたかもしれないが、実際目の能力というのはインパクトが強い。
筆者の中で一番初めてみた目からの能力が、猫の姿をしたかわいらしいヒロインが目からビーム光線を放つというものだ。
見たときはキョトンとした、だってビーム放ったら穴は空くどころの問題ではなく、建物が普通に倒壊したので、ただひたすらに大笑いした記憶が強い。
目から破壊光線放って、容赦なく敵を倒していく姿はなんだろうこれ、という思いだった。ちなみに、作品の世界観としてはヒロインが立派な王女として修行するという内容だ。
王女になるのに目から光線放つ必要性がどこにある、そもそもそんな攻撃方法持っているなら、国の軍事的なものほとんどいらなくて、ヒロイン一人で戦争があっても勝てるんじゃないか、何て考えたこともあった。
要は、想像力が膨らみやすいということだ。特に赤い目をしているとなれば、色々自分の創造で自由にアレンジして物語を構成できるという点で、同人誌としてもテーマにしやすい。
しかしテーマになりやすいという点で、やりやすいかどうかということにはならない。 やりやすい=みんながやっているということになりがちで、個性が中々感じられなくなってしまう。
八雲原作小説が発売された当初はそれほどでもなかったのだろうが、今となっては飽和状態だろう。
だからと言って、八雲の世界を否定したいというわけではない。作者には作者の書きたかった世界観として、八雲があるのだ。
それを応援することはあっても、否定することはない。